西東京市多文化共生センター
┌-------------------┐  
     NIMIC通信 No.23(2008年3月)
└-------------------┘


┏┏┏ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┏ [5] キーワードを読む~「多文化共生」について理解を深めるために⑲
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 NIMIC設立の理念の中で大きなウェートを占める「多文化共生」。この言葉をキーワードに、2006年9月号から多文化共生に関わる本の紹介を始めました。
19回目の今回は、アフリカのケニアで、マサイの戦士の一家に生れたレマソライ・レクトン少年が、アメリカで教師になるまでを描いた実話をご紹介します。

『ぼくはマサイ ―ライオンの大地で育つ―』
   ジョセフ・レマソライ・レクトン著 さくまゆみこ訳 (さ・え・ら書房 2006年)

 マサイはマー語を話し、牛を飼う遊牧民であり、木の枝に牛の糞を塗りつけた家で暮らし、草地を求めて村単位で移動して生活します。生活の全てが牛とともにあり、牛を襲う猛獣に対しては、たとえライオンでも恐れずに戦うことで知られています。
 その頃、ケニア政府は全ての遊牧民に対し、一家族1名ずつ子どもを学校に行かせなければならないという法律を定めました。いやがった兄たちに代わって、レクトン家ではレマソライが小学校(アメリカの宣教師が経営)に入ったが、困ったのは、遊牧民の村は牛とともに移動するが、学校は1ヶ所にとどまっていること。
 二年生(7才)からは寄宿舎に入りましたが、長期休暇に入ると、今どこにいるかわからない家族を求めて、何十キロもの土地を何日もかけて、自分の村を捜して歩く生活でした。
 勉強がよくできたレマソライは、やがてカバラック・ハイスクールへ進学します。そこでは「ケニア中から集まる生徒たちは、種族、氏族もいろいろで、まるで小さな国連みたい・・・お互い同士は英語かスワヒリ語で話していた。」
 その後、奨学金を得てアメリカの大学に進学し、現在は1年の半分をアメリカで教員生活、半分をケニアで過ごしています。
 「思うに、一番大変だったのは、家族そのものでも、なれない食事でも、歩いて家に帰る旅でもなく、ぼくが村の人たちとは少しずつ違ってくるという点でした。家にもどるたび、自分がちょっとずつちがうように見えてくるのです。」
 異なる言葉、異なる生活習慣、異なる価値観の中で過ごすレマソライ少年の人生は、常に異文化体験なのです。それらの中で彼が根幹に位置づけるマサイ文化の描写がすばらしいです。
 振り仮名つきで小学校高学年から読めますが、大人の方にお薦め。本屋さんで発売中です。      (NIMIC会員 根本 百合)

 
 
 前号の本の紹介文に移る | 書籍の一覧に戻る | 次号の本の紹介文に移る

HOME  |  ABOUTUS  |  ACTIVITIES  |  VOLUNTEER  |  CONTACT  |LINKS

NPO法人 西東京市多文化共生センター     Copyright (C) 2011 NIMIC All Rights Reserved.