西東京市多文化共生センター



NIMIC通信の「世界の国々・人々」と題したコーナーで連載したエッセイをまとめてご紹介します。さまざまな国にスポットをあて、その国の文化や人々の交流をお届けします。

 

多文化共生の先進国であるオーストラリアで、マッコーリー大学の日本学科長および日本教育研究センター長であったCHOW先生によるエッセイをご紹介します。
<NIMIC通信2009年9月~2011年3月掲載>

 


多文化に生きる

 1回 「序」

 7月にNIMIC代表理事の佐々木瑞枝先生がシドニーにいらっしゃいました。日本研究の国際学会出席のため、大学院生二人をお連れになっての来豪でした。 真夏の東京から、真冬のシドニーへ、大変な季節差です。でも、相変わらず精力的に仕事をこなされていました。何年も前から敬愛申し上げている先生と久しぶりにお目にかかって話しがはずみました。 その時、NIMICの話を伺い、Website寄稿の話になりました。

 お引き受けすることにしたのは、私自身の人生経験が少しはお役にたつかもしれないと考えたからです。もともとは東京生まれの東京育ち、小学校から高校までは成蹊学園でしたから、西東京市はなつかしい地域です。 早稲田大学卒業後米国の大学院に留学、そして結婚、その後の人生は総て海外で送ることになりました。アメリカ、カナダ、オーストラリアの三国に暮らして40年以上になります。どの国も多文化共存の国です。 三国の何れもイギリス植民地が独立して、多民族の移住によって築かれた国です。人種構成も似通っています。
しかし、人種間の摩擦、多文化による恩恵ということを考えると、三国に暮らしてみた体験から、オーストラリアが一番成功している気がします。二人の娘もオーストラリアで生まれ、多文化の豊かさを存分に受けて育ちました。
 だから愛着が特別強いということも無論ありますが。

 オーストラリアの人口は現在2千万人余り。その4分の1に当たる約5百万人が海外から移住した要するに一世です。出身国は、英、米、カナダ、ヨーロッパ各国、アジア各国、中東、アフリカ、南米諸国など、 主要出身国だけ数えても50カ国以上、世界の全地域に及びます。共通語は英語ですが、家族レベル、あるいはコミュニティ・レベルで使われる言葉はイタリア語、ギリシャ語、中国語、スペイン語、 トルコ語、アラブ語などを含めて40カ国語近くです。

 ご存知の人も多いと思いますが、オーストラリアは建国の1901年から通称「白豪主義」と呼ばれる政策をとりました。これが、海外からの突き上げもありましたが、 むしろ国内の知識層を中心とする動きによって撤廃されたのが1970年代初めのことです。それから40年間、新生オーストラリアのアイデンティティに多文化主義を掲げ、 政府から民間にいたるまであらゆるレベルで努力がされました。多民族がただ単に共生するのみでなく、異文化を不利と考えず、多文化の恩恵に焦点を当てるという努力です。 この意識的努力がオーストリアを多文化共生の成功国にしている理由の一つでしょう。

 多種多彩の文化が肩を擦れ合わせている社会で生きるということはどういうことなのか。日々の経験の中から何を学ぶのか。私自身の体験を元に、次回から書いてみたいと思います。
    

 

 2回

 長女が12歳の頃であった。シドニー郊外のハイスクールに通っていたが、ある日、友達を沢山連れて帰宅したことがある。元気で食べ盛りの年齢。さぞお腹がすいていることであろうと早速台所に立った。 こういう時はサンドイッチが一番手っ取り早い。常套手段は、サンドイッチの材料をいろいろテーブルに並べて、かってに作ってもらう。それぞれの好みに合わせて好きなように作ればいい。 大皿を出してまずハムから並べ始めた。そこに娘が入ってきた。皿を一目見て私に云った。
「マミー、ハム駄目じゃない。ジェニーがいるのに。」
 私はハッとした。そういえば仲良しのジェニーはユダヤ系、ユダヤ系は豚肉が食べられない、ハムは豚から作るのだった。
自分のうかつさに気づいて、あわててハムをひっこめ、卵、トマトなどに切り替えた。

 オーストラリアの子供たちは、自分の友達それぞれが持つ文化背景の違いをいつの間にか飲み込んでしまう。友達の家に遊びに行けば、文化によって慣習がちがい、食べる物も違う。 宗教によっては食べてはいけないものがはっきり定められている場合もある。ユダヤ教では豚肉ばかりでなく、貝類、甲殻類など食べられない。インドのヒンドゥ教であれば牛肉が駄目。 菜食者も多く厳しい場合は卵も駄目。イスラム教も豚肉はいけないし、ほかにもいろいろ制限がある。オーストラリアで育つ子供たちは、宗教の違いなどと難しいことを考える前に、
「○○ちゃんはxxが食べられない」
と自然に受け入れてしまう。好き嫌いのわがままで食べないのとは違う。それは子供であっても、相手のアイデンティティであり、尊重すべきことなのである。

 

 3回

 オーストラリアでは21歳の誕生日が特別なお祝いである。日本の成人式に近いといえるかもしれない。友人を集めて盛大なパーティをすることが多い。
我が家でも娘の21歳の誕生日には自宅でパーティをすることにした。大学や高校時代からの友人を集めて客は約150人。この人数では、とても私自身の手料理でまかなえるものではない。パーティ専門店を頼むことにした。

 さて問題は献立である。送られて来た献立リストを眺めて一家で頭をひねった。
先ずお肉。友人にはイスラム教もユダヤ教もヒンドゥ教もいるから、牛、豚は駄目。安全なのは鶏と羊である。海鮮類は貝や甲殻類を避けると、やはりお魚の切り身が安全そう。インドのブラーマンの家に育った人もいるから、 厳しい菜食者のための野菜料理。カレー料理もあれば、中華風、アラビア風、いろいろ混ぜる。巻き寿司は意外に無難。それにオーストラリアらしくサラダを幾種類か加えて・・・  当地で生まれ育った娘二人の智識に頼りながら、パーティに来る誰もが不都合なくお腹一杯食べられるように、できるだけヴァラエティにとんだ献立を作り上げた。注文を受け取ったパーティ専門店は慣れたものである。 あらゆる文化の入り混じった献立を見ても、当たり前のことといわんばかり。何の疑問もなく気楽に引き受けてくれた。

 パーティの夜、照明が明るく庭を照らした。ヴェランダにいくつもの長テーブルが置かれ、所狭しと並んだ料理は色とりどり。楽しげにおしゃべりしながら、旺盛な食欲でそれぞれのお皿に料理を取り分ける若者たち。 彼らの肌の色も髪の色も、これまた色とりどりである。でもそんな違いは誰も気づいてすらいない。娘は二人とも医学部であるから、友達もほとんどが医者の卵。
共通するのはそれくらいのものであろうか。自宅に帰れば、夫々親から伝わる文化がある。しかしこうして集まれば、皆オーストラリアで育ち、同じ大学に通い、共に青春を謳歌する友達同士なのである。

 友人に囲まれて楽しそうにしている娘二人の姿を見て、ああオーストラリアで育って幸せな娘たち、と思った。オーストラリアの子供たちは幼い時から、友達を通じて数多くの文化に接し、それを肌で学んで育つ。 それは異文化に対する敬意と寛容度を育て、本人たちの人間の幅を広げる。グローバル化が進む21世紀の世界で生きていくための素晴らしい技能ではないかと思う。

 

 4回

 世界を震撼とさせた9.11。その直後、私の勤務するシドニーのマッコーリー大学では「イスラム教学生のための祈りの会」が開かれた。
総長ダイ・ヤーブリーの発案であった。彼女はオーストラリアの大学で初の女性総長として有名になった人である。出身はイギリスであるが、若い時にオーストラリアに移住、多文化主義に心底から共鳴した。そして教育者の立場から、大学での実践を積極的に行っていた。

 9.11後、世界各地でイスラム教に対する感情的な非難が上がった。この状況の中で彼女が学生に訴えたメッセージは「9.11は世界の悲劇である。一宗教の問題ではない。このような悲劇が二度と起こらないためには、 宗教を超え、皆が一体にならなければならない」。 彼女の呼びかけに答えて集まった学生は数百人、学生ホールはいっぱいになった。イスラム教の学生ばかりではない。 キリスト教の学生も、普段は特に宗教に関心を持たない多くの学生も、誰に強制されることなく集まり、真剣な態度で世界平和を語った。「9.11の犠牲者にはイスラム教徒も沢山含まれている。 その人たちのことも念頭において、一緒に冥福を祈りましょう。」 総長のことばに、皆静かに頭をたれた。普段やかましい学生ホールが一瞬にして清浄な静けさに包まれた。

 多文化の国に住んでいると、世界の動きに対する反応が敏感になる。国民各自が持つ人種的、文化的背景に直接関係するからである。知的好奇心が旺盛で、熱気盛んな若者たちでいっぱいの大学キャンパスはともすれば危険を含む。 そんな時、感情的過激論に走らず、悲劇的事象をも「学びの糧」に還元するのはどうすればいいのであろうか。教育者の信念と能力が試される時である。 マッコーリー大キャンパスには9.11よりずっと以前からイスラム教学生のための「祈祷室」が設けられている。キリスト教のチャペルもあるのだから当然のこといえるが、総ての大学がそうであるとは限らない。
イスラム教徒は中東に限らず、インドネシア、マレーシア、インドなど近隣国にも多い。その地からの移住者も近年増えている。心遣いが大切になる。

 キャンパスでは、今日も学生達が三々五々教室に向っている。人種背景はいろいろだが、男女とも殆どがジーンズ姿。万国共通の学生ファッションであろう。 でも、ジーンズにTシャツでありながら、頭をきれいな色のヴェールで覆っている女子学生がいる。濃い髭の伝統主義ユダヤ系学生もいる。9.11直後、学生たちの心理状態を案じて、 特別のカウンセリング・サービスも設けられた。しかし、キャンパスに不穏な事態は一度も起こらなかった。友達と楽しげに語り合う学生たちの様子は今日も変わらない。

 

 5回

 「オーストラリア人の英語は分りにくいですね。トゥディをトゥ・ダイと言いますからね。」いまだにそういうことをと云う日本人に出会う。 200年前に来た、あるいは流刑囚として連れてこられたイギリス人にはコックニィの英語が多かった。これをからかって大げさに言ったのが、上記の神話(?)の起源とみられる。 今のオーストラリアで純粋のコックニィを聞くことは少ない。しかし、先入観というのは恐ろしい。日本人観光客には「オーストラリア人の英語だから分らない」と首を振る人が未だに多い。

 英語が世界共通語になった現在、「xx人の英語が分らない」というのがそもそもおかしい。フランス人であろうが、イタリア人であろうが、皆それぞれの国のアクセントで英語を話す。 例えば、歴代の国連総長が英・米から出たことは一度もない。どの国連総長も、自国特有のアクセントで英語を話すのが常である。現国連総長の英語は完璧であるが、韓国のアクセントで話す。 しかし、国連総長の英語が分らないという人はいない。

 オーストラリアの人口はその4分の一が海外で生まれた人である。街を歩いても、電車に乗っても、あらゆる国のアクセントの英語が聞こえてくる。
イギリス人といっても、英語は一つでない。アイルランド、スコットランド、英国南部など、それぞれアクセントが違う。ニュージーランド人も特有のアクセントで話す。南アフリカ出身者もしかり、である。

 私が勤務した大学の外国語学部には13ヶ国語の学科があった。仏、伊、スペインなどのロマンス語系、ドイツ語、ギリシャ語、ロシア語、ウクライナ語、セルビア語、マケドニア語、加えて日本語、中国語、などなど。 教授陣もそれぞれの国のNative Speakerが多いから、学部会議ともなると、あらゆるアクセントの英語が飛び交う。国が違えば、文化背景も違う。議論になれば、背景になるロジックも論法もおのずと違ってくる。 聞く方は相手の文化背景を考慮して理解しないと、判断をあやまることになる。正に多文化共生の訓練場である。

 「オーストラリア人は私のつたない英語でもよくわかってくれますね。」 
これも日本人訪問者からよく聞く。要はオーストラリ人が「聞く耳」を持つということである。普段からいろいろなアクセントの英語に聞き慣れていることは確かである。 しかし、根底にあるのは、耳慣れないアクセントも、一風変わったロジックもひっくるめて、まず相手のいうことを理解しようとする姿勢である。 ここに寛容さが生まれ、「xxx人の英語は分らない。」などという偏狭さの入る余地はない。

 

      

一番左の写真は次女の夫が写真を撮りましたので、彼だけが抜けていますが、その他の一家全員です。中央の写真の孫は11ヶ月。日本、中国、インドの血を受け、オーストラリア、カナダの両国籍を持つ、まさに21世紀のMulticultural Babyです。

 

 6回

 長女が7歳の時、郊外に移った。娘が新しい小学校に転入して数週間後、心配なことが起こった。娘が東洋人であることをやんやとはやす、いじめっ子が数人いることが分ったのである。娘にとっては初めての経験で急に不安を感じるようになった。

 親としてこの事態をどう処理すべきであろうか。「そんなことすぐ過ぎることだから真剣に考えることないわよ。」と言うオーストラリア人の友人もあった。でも聞くうちに、この種のいじめは娘だけではないことが分った。
ドイツ系、イタリア系などの子供は「ウォグ」とはやされ、イギリスから来て英国アクセントの強い子は「ポム」と呼ばれている。いずれも侮蔑的な呼び名である。 オーストラリアが白豪主義を破棄したのは1972年、娘が生まれた年である。「多文化主義」が新しく国の政策として打ち出されてからまだ数年、まさに過渡期であった。この大切な時期にこのような事態をほっておいてはいけない。 害を受けるのは娘や、いじめの犠牲になっている子供だけではない。いじめっ子たちの将来にも悪影響がある。そう考えて、校長先生に会いに行く決断をした。

 校長先生は年配の優雅でしとやかな女性であった。しかし教育者として筋金が通っていることはすぐ感じた。私の話を聞いた彼女は椅子から転がり落ちんばかりに驚いた。「そんなことが起こっているなんて知りませんでした。
さっそくその悪者たちをみつけて厳しく処罰します。」すごい剣幕であった。
あわててなだめにかかったのは私の方であった。自分の娘のことだけではない。長い目でみて、皆が学ばなければならないことではないか・・・ 私の話を最後まで聞いた彼女は、うなずいて「よく分りました。お任せください。」と言った。

 彼女の行動は早かった。まず娘を木陰のベンチに呼び、一緒に座ってやさしく話してくれた。「あなたがこの学校に来てくれて、とても嬉しいの。皆歓迎しています。 もし、いやなことを言う子供がいたら、直ぐ私のところにきて教えて頂戴ね。」 新入生の娘をまず安心させた。そして次に7歳児、8歳児のクラスを一つ一つ廻った。 人の外見が違う、アクセントが違うといってからかったりいじめたりすることがいかに間違っているかを、子供たちに分りやすい言葉で話した。

 その後いじめっ子が消えたわけではない。しかし、娘の不安はすっかり消えた。人種によっていじめるのは間違っているという真理が校長先生始め、学校ではっきり表明されたのである。 次にいじめっ子にからかわれた時、娘は告げ口には行かなかった。でも他の子供達が先生に言いつけに走った。
「いけないことなのよ。」という概念が子供たちの心に浸透したのである。
娘にとってはそれで十分であった。それからは何のくったくもなく新しい学校に溶け込んでいった。

 

 7回

 多文化先進国と謳われるオーストラリア。しかし、40年近いその過程は常に順調だったとはいえない。反動政権が出て、「白豪主義」に逆戻りかと感じられた時期すらあった。しかし、多文化主義は根強く浸透していった。
これには、次世代の教育を担う先生達に負うところが大きいと、いつも思う。特に小学校の先生に優秀で、かつ信念を持った教育者が多い。前回に続いて小学校でのエピソードをもうひとつご紹介しよう。

 娘が四年生の時、担任のホンドゥ先生は一学期のプロジェクトとして子供たちに「お祖父さんの国を知りましょう」というテーマを与えた。
子供たちのお祖父さんの出身国を見るとイギリス、スコットランド、イタリア、レバノン、インドなどいろいろな国が出てきた。娘がいるので日本もテーマ国の一つになった。先生は子供たちを国によってグループに分けた。
何代にも渡って生粋のオーストラリアっ子もどこかのグループに配属された。各グループは、まずテーマ国の歴史、地理、産物など調べた。
子供たちにとってテーマ国はただ「よその国」ではない。〇〇ちゃんのお祖父さんの国である。興味が一段と違う。図書館にいったり、地図をみたり、熱心に勉強した。お祖父さんが近くにいれば実際に来てもらって話しを聞いた。 好奇心にかられた子供たちの質問にも答えてもらった。次に子供たちはその国の歌や踊りを習った。簡単な言葉も覚えた。こうなると、家族動員である。お祖父さんお祖母さん、親たちも学校に出向いて、童謡やダンスを教えたり、 正しい発音を紹介したりした。学期の総仕上げは、各グループによる寸劇であった。せりふは全部、夫々の国の言葉。歌やダンスもあった。私も学校に出向いて、日本グループの子供たち一人一人にせりふを口移しで教え、 皆が覚えるまで、一緒に歌を歌った。発表の当日は早めに行って、子供たち一人一人に浴衣を着せた。

 発表会は賑やかであった。可愛い9歳、10歳の子供たち。色とりどりの民族衣装を着て、グループごとにテーマ国の言葉でせりふをあやつり寸劇を披露した。 またその言葉で歌い、民族ダンスも紹介した。子供達は皆いきいきとして、とても楽しそうであった。それを見る親たち、お祖父さんお祖母さんたちも誇らしげに顔をほころばせていた。

 学期を通じて子供たちが学んだものは大きい。毎日遊ぶ友達が夫々色々な国の背景を持っていること、自分の暮すオーストラリアは沢山の文化や歴史が集まってできていることを肌で理解した。そして別の文化を知ることはとても楽しいことも味わった。

 ホンドゥ先生のプロジェクトのもう一つの大きな効果は家族を巻き込んでしまったことである。多文化社会の成功には次世代の教育が鍵である。しかし、「大人の持つ」偏見が障碍になることが多い。 家族の中でいつのまにか子供たちにも伝わってしまうからである。ホンドゥ先生は特別優秀と聞いていたが、彼女の考えの深さに頭が下がる思いであった。

 

 

 8回

 我が家は私を除いて全員医者である。次女は外科医。外科は緊迫した手術が多い。特別大変だった手術が終わると、偉い先生が若手外科ティームを率いて、ねぎらいと緊張をほぐすため高級レストランに夕食に連れ出すことがある。 そんな一夜、素敵な夕食が終わり、緊張もほぐれて皆歓談していた。話に加わりながら、娘はコーヒーと一緒に出たチョコレートの金紙で鶴を折っていた。彼女は幼い頃から折紙が好きだった。 手先が器用で数センチ角の小さな紙からも見事な折紙を作った。本人が外科を選んだのも、この手先の器用さに無関係ではないようである。
  皆の話を聞きながらうつむいて鶴を折っていた娘は、急に周りがシンとしたので「何事か」と顔を上げた。皆の視線が彼女の手元に集まっていた。 何の変哲もないちいさな金紙から鶴ができたのに皆びっくりしたのである。娘は照れてしまった。「お里が知れた」というところであろうか。皆同じオーストラリア生まれの同僚達であった。 しかし、ひょんなところで文化背景が出た訳である。多文化以前に育ったお年寄りの先生たちは余計びっくりしたらしい。

 かつてはアングロ・サクソンが主流を占めていた医者の世界であった。今は変わり、急速に多文化になった。便利なこともある。例えばクリスマス。年間を通じて最も重要な休日で皆家族と一緒に過ごす。 しかし医者はそうはいかない。患者をほっておくわけにはいかない。だれが当直するか。多くの場合、キリスト教徒でない、例えばイスラム教徒やヒンドゥ教徒の医者が率先して当直を引き受け、キリスト教徒の同僚が休暇を取れるようにする。
ではラマダンはどうであろうか。ラマダンはイスラム教徒にとって大切な行事である。ラマダンの間は夜明けから日没まで断食で、水を飲むことさえ許されない。 何時間も立ちっぱなしの外科手術など体力的に大変である。この期間はイスラム教以外の医者たちが交代で助ける。断食明けには必ず家に帰れるよう気を配る。

 長女がインターンを終えて間もない頃、救急につめていた。運ばれてきたのはアラブ系の男性であった。病院は手をつくしたが、その甲斐なく亡くなった。 その男性には若い奥さんがあり、子供も幼かった。急報に集まった両親、お年よりの親族などで病室は一杯になった。激しい嘆きの中で言葉は全部アラブ語に代わった。 泣き叫ぶ親族たちに囲まれて、若い娘はどうしていいか分らなかった。その時、後ろからそっと肩をたたかれた。背の高いもの静かなその男性はサウジ・アラビアから客員で来ていた専門医であった。 「ここは僕に任せなさい。あなたは行った方がいい。」 娘を部屋の外に導いて背後でドアを閉ざした。

 後でその話を聞いた私は、「この国で医者になるには、医学知識だけではとても足りない。あらゆる文化を許容できる大きな人間の幅が必要になる。」と考えこんでしまった。

 

 

   外科専門医資格授与の式典にて

 

 9回

 オーストラリアも都会であれば、世界中のあらゆるお食事を楽しむことができる。どの国の料理でも、シェフがその国出身の人であるばかりでなく、ウェイトレスやお客もその国から来た人が多い。だから味が純粋なだけでなく、その国の雰囲気も一緒に味わうことができる。

 過去10年ほどは寿司屋が急増した。ちょっとした町なら大抵簡単にお寿司がたべられる。ある日の午後、買い物に出ていて昼食がまだだったことに気づき、近くの回転寿司の店に入った。丁度学校の下校時間であった。 寿司をつまんでいたら、中学一年生くらいの少年が二人入ってきた。一人は金髪、もう一人は栗毛、近くにある名門校の制服を着ていた。二人とも慣れたもので、高い椅子に登りあがると、すぐ小皿を取り、お醤油をいれて、 目の前に廻ってくる寿司を物色し始めた。下校の途中お腹がすいたので立ち寄ったのであろう。でも何故寿司なのか。自宅で食べているとも考えられない。そう考えて、二つの理由を思いついた。 ひとつにはお皿の色と数で値段がすぐ分る。ポケットのお小遣い内で勘定できる。もうひとつは手で食べられるから楽。イギリスの伝統で、オーストラリアではテーブルマナーに厳しい家庭が多い。 名門校ではしっかり教え込まれる。でもお寿司なら大丈夫、というわけであろう。おしゃべりしながら食欲旺盛に頬ばっていた。

 オーストラリアではアメリカなどに比べて、箸を使える人が多い。中華料理店などに行くと、文化背景に拘わらず何系の人でも大抵不自由なく箸を使っている。 しかし、これはシドニーやブリスベンなどの都会の話。地方では様子が違う。次女の夫はタスメニア出身である。オーストラリアの最南部の離れ島。 日本で食べるイセエビなどはここの産物が多いが、最大都市ホーバートといってもまともな日本食レストランさえない。

 次女の結婚式の時、披露宴の最後にこの国の習慣で花婿がスピーチした。スピーチの中で彼は始めて我が家の夕食に招待されたときのことを話した。ガールフレンドの両親との初対面、しかも夕食。 彼はものすごく緊張した。当日前の一週間ぶっ続けで箸を使う練習をした。ところが夕食に出されたのは、豚あばらのローストであり、「手で召し上がれ」とすすめられた。 それがいかに嬉しかったか、「初対面からご両親に歓迎された思いだった。」と彼は語った。私たちにしてみれば、ちょっとした心使いであった。そんなに喜んで貰えたなんて知らなかった。 主人と顔を見合わせで微笑みを交わした。お目出度い日のとてもいい締めくくりであった。 

 

 10回

 オーストラリアを永住の地に選んだ人々の中には各国からの難民がある。難民の殆どは自国の政治や戦争を逃れてきた人。自国では知識層にあった人が多く心の傷も大きい。

 アイリーンは美人で、才能豊かな人だった。ハンガリーの上層階級に生まれ、10代でヴァイオリニストに恋して結婚した。そして第二次大戦。ユダヤ系の夫は家族とともに強制収容所で殺された。          彼女は地下に潜ってレジスタンスの一員になった。戦後外交官と結婚。夫とともにウィーン駐在中ハンガリー動乱勃発。即時本国召還の命。旧政府に任命された外交官である。 帰国すればどんな運命が待つか分らない。機密書類を焼却する時間もなく官邸の裏庭に埋め、荷物も持たず、コートだけ着て歩いて山を越えスイスに逃れた。
「サウンド・オヴ・ミュージックと同じよ。」
 そんな話をする彼女に会ったのはそれから20年後。シドニー郊外の趣味のいい家で夫と娘と平和に暮らしていた。娘時代本格的に勉強した油絵も楽しんでいた。でも彼女の話を聞く度に、歴史に翻弄された人生に私も巻き込まれる感を味わった。

 アナは中国人の父とポーランド人の母を持つ。父は周恩来の推薦で革命後の初代中国大使としてロシアに駐在。彼女はモスクワの芸大で油絵を学んだ。中国に帰り画家として高名になると同時に北京芸術大学で教えた。 そして、文革。知識層であった一家は激しい迫害を受けた。両親を始め家族九人が殺された。大学教授であった夫は連れ去られたまま行方が分らなくなった。二人の幼い子供は無理やり取り上げられ「再教育」のため地方の農家に送られた。 一人シドニーにたどり着いた時は一文無し。手荷物で持てるだけの作品が唯一の所持品であった。その作品を見せてもらって、ただものでないことを知り、我が家で個展を開いてあげた。彼女が画家として再び立ち上がるきっかけとなった。 間もなく由緒あるNSW州芸術家協会がメンバーとしてアナを迎え、個展を開いて彼女を紹介した。その後オーストラリアだけでなく海外でも何度か展覧会が開催された。一番の幸運は失った子供二人を見つけることができたことであろう。 二人をシドニーに呼び寄せ、今は成人した娘とその夫と暮している。息子のところにはもう孫ができた。アナは80歳を超え病弱であるが、今も散歩にスケッチブックを欠かさず、体力が続く限り絵を描いている。

 難民受け入れとは自国において未来を絶たれた人に新しい人生の機会を提供することである。国と国民の懐の深さが要求される。国連憲章に明記された重要な国際行為である。そして私にとっては、アイリーンやアナから学んだ人生の重みはかけがえがない貴重なものである。

 

 

 11回

 戦乱や革命で自国での将来を絶たれ、オーストリアに逃れた難民。しかし新しい国で人生を再建することは楽なことではない。前回に続いて、もう一人の話を紹介しよう。

 ドウングさんはヴェトナム人である。サイゴンの恵まれた家に育ち、大学では工学を専攻した。卒業後日本に留学、国立大学の大学院を修了した。 日本が気に入り、日本語も堪能になった。祖国に戻って教職につき、結婚、子供も生まれた。しかしヴェトナム戦争は激化、1975年サイゴン陥落。 北ヴェトナム新政府による南ヴェトナム人、特に知識層に対する激しい排斥が始まった。
一家の安全と、自身ばかりでなく子供たちの将来を憂えて、ドウングさんは祖国を脱出する決心をした。
 「メコン河を泳いで渡りました。一番下の子を背中にしょってね・・・」。そして、 いわゆるボート・ピープルに加わった。 オーストラリアにたどり着き難民として受け入れられた。平和な国での生活が始まったが、次の困難が待っていた。
仕事がない。ヴェトナムの学位も、日本の学位も役に立たなかった。英語力も不足であった。やっと見つかったのは工場での労働だけであった。先生として、教養人として、誇り高く生きて来た人である。
「工場で働いて、毎日泣きました。」 
つらかった日を語る。何とか立ち直りたい。
 1980、90年代はオーストラリアで日本語教育が爆発的に発展した時期である。「日本語なら教えられる。」 しかし、教師になるには大学の日本学科の学位と教職課程修了が必要になる。 最低4年はかかる。その間どうやって一家を支えるのか。しかし彼の決意は強かった。
 工場で夜勤をしながら日本学科に通い始めたドウングさんは人が変わったように明るかった。もう一度立ち直れる、その希望が彼に目覚しい気力を与えた。 日々英語で苦労する彼にとって、自由に日本語でおしゃべりできる日本学科は故郷に帰ったように楽しかった。授業以外にもちょくちょく日本学科に顔を出した。 ヴェトナムはフランス統治の名残でケーキがおいしい。友達の店からという美しいケーキを持参してスタッフ一同を喜ばせてくれた。
 卒業式の日、若い学生に混じってガウンとキャップで行進する彼。感嘆と敬意で胸が熱くなった。あれから何年であろうか。ドウングさんは今シドニーのハイ・スクールのヴェテラン教師である。 最近、奥さんと一緒のドウングさんにばったり出会った。彼の奥さんは美しい人である。愛らしく華やかで、とてもメコン河を泳いで脱出した人とは思えない。 彼の努力はすべてこの美しい奥さんと子供たちのためであったのであろう。満面の笑顔でなつかしそうに近づいて来る彼をみながら、人生の重みと喜びを感じた。

 

 12回

  次女が幼稚園に通い始めた頃であった。自宅の子供部屋の陽だまりに座り込んで、自画像らしいものを描いていた。ふと顔を上げて彼女が「マミー、私の髪、何色だっけ?」と聞いた。 「髪は黒に決まっているじゃない」と言いかけて、はっと言葉を飲み込んだ。そうじゃない。お向かいのシモーヌの長い髪は金髪、よく遊びに来るコーリイは薄茶、ベンは濃い栗色、 幼稚園で一番仲良しのカレンは白に近いプラチナ・ブロンド。髪って皆まちまち。
  多民族が一緒に暮す社会では、「顔かたち」ではなく、夫々の「色合い」が個人のアイデンティティになることが多い。肌の色だけではない。髪、眼の色などひっくるめた総合的な「色合い」である。 ドレスを探していて、これは「私の色」に合わない、というのをよく聞く。金髪で薄いブルーの眼、全体に柔らかい「色合い」の人の場合、「私にはもっと強い色でなければ……」などという。 同じブルーでも、自分の眼のブルーとちがう。それでは却って合わない。でも、眼と同じ色のブルーを着るととても引き立つ。
 
 人を描写するのにも「色」が主体となる。同じ白い肌でも、ピンクがかった「桃のような」白、クリームがかった「象牙のような」白、イタリア、ギリシャなど地中海民族に多い「オリーヴがかった」白など、 まことに色に敏感である。ところが、黒髪ばかりの国で育った私などには、相手を「色」で認識する習慣がない。何年か前、大学外部のいろいろな専門家を集めてプロジェクトを行ったことがある。 メンバーにスティーヴン・フォックスという同姓同名の男性が二人いた。ある日別の人から「スティーヴンがあなたを探していましたよ。」といわれて、「どちらのスティーヴン?」と聞き返した。 「フェアな方」という返事が返ってきた。さて、困った。「色」なんか見ていなかった。例えば一人が北欧系で、もう一人が南欧系であったら、どちらがフェアかは見当がつく。 しかし、名前が示すように両方ともアングロサクソン系。微妙な色の違いなどまるっきり私の意識外にあったのである。
  反対の例もある。うちの大学の日本学科の卒業生を日本企業に送る研修制度を設立した。オーストラリアから学生が日本に着くと、受け入れ先の企業から担当社員の方が向かえに出てくれる。 成田までは大変なので、東京のどこかで待ち合わせということになる。「僕は身長175センチくらい、めがねをかけて、紺の背広でブリーフ・ケースを持っています。」と、担当社員はあらかじめ親切に情報を送ってくれる。 日本が始めての学生は待ち合わせの場所にやっとたどりついて面食らう。皆黒髪で背格好も似たりよったり。色の違いがないと、最初皆同じに見える。増して、紺の背広にブリーフ・ケースの人はいくらでもいる。 大抵は担当社員の方から見つけてくれるので大事には至らないが、迎える方も迎えられる学生も、共に考えてもみなかった誤算である。

 

 13回

 オーストラリアの大学で日本を学ぶ学生の指導に当たって30年以上になる。18歳から数年、ティーンから大人になるこの過渡期の学生に接して、教えられることが多い。

 アレンは大学にすら入れない成績であった。うちの学部入学には高校卒業試験指数最低85が必要。彼は50にも満たなかった。でも高校時代から勉強した日本語が好きで、どうしても日本語だけは取りたいと面接に来た。 聡明な学生であることは話して分った。何故このような成績になったのかは聞かないまま、日本語学科の仮入学を許可した。
もし成績がよければ正規学生になれる。クラスで彼の成績は抜群であった。二年目には問題なく正規学生になり、四年目に名誉課程に進んだ。成績優秀な学生にのみ許される研究過程である。 彼はちょくちょく私の研究室にも顔を出していたので、卒業したとき、「今だから聞くけれど、高校卒業試験はどうしてあんな成績だったの?」と聞いた。 最初はテレて云おうとしなかったが、最後にぽつりと話した。誰よりも尊敬し、愛していた父が卒業試験直前に急死した。もう総てどうでもよくなった。勉強もほっぽり投げた、と話してくれた。 「ああ、あの時特別許可を下ろしていなかったら、大学入学もできず、この子はどうなっていたであろう。」教育者としての責任の重さに震憾とした。

 アレンは名誉課程をファースト・クラスで卒業した。この資格を取ると修士課程なしに博士課程に進める。通知を受け取って数日後、彼は満願の笑顔で研究室に来た。 「お父さんもこの大学でファースト・クラスを取ったんだよ。だから嬉しくて嬉しくて。まずお母さんとシャンペンで乾杯して、それから友達とお祝いのしっぱなし。」まだ少し酔っているのか足元があやうかった。

 僅か21歳でアレンは博士課程に入った。海外援助に特に興味をもっていたので、研究課題として「アジアにおける日本の海外援助」を勧めた。ところが彼は「日本がODAなどでアジアに金をばら撒くのは、 結局は自国企業の営利目的だけ。援助なんて名前ばかり。」という。オーストラリア並びに西欧諸国一般に存在する固定概念である。そう思うのなら、それが本当かどうか自分の眼で確かめてみたら、 という私の提案に彼は同意した。自分の眼でみるためには現地に行く必要がある。日本領事館のお世話によりラオスで活動する日本のNGOで預かってもらう段取りができた。
  ラオスに一年、帰国したアレンの考えは変わっていた。日本の海外援助が必ずしも「日本企業の手先」ではない。アレンにとっては意外な発見であった。 日本のNGOメンバーと共に活動して彼等の熱意と誠実さに感銘した。いつの間に彼もNGOの一員となって活動に加わり、国際機関向けの報告など率先して製作した。 アレンは今、若き研究者として日本の海外援助の実態など国際会議で発表している。日本人が発表するより説得力がある。日本のイメージ向上に大きく貢献してくれていると、私も嬉しい。
* 文中の人名は仮名

 

 

 14回

 海外の大学生に日本を教えるとき、一番のチャレンジは学生たちの持つ、日本に対する固定概念である。 オーストラリアに限らず、西欧諸国では日本のイメージが未だ第二次世界大戦とその時西欧で行われたプロパガンダに彩られていることを感じる。 では、ずばり戦争を取り上げ、日本人側から見た戦争経験を勉強してもらおうと試みたことがある。 

 日本学科でも最上級生になれば、学生はもう日本語がそのまま読める。柳田邦男「マリコ」を学生と読んだ。若き外交官寺崎英成。アメリカ女性グエンと恋して結婚したロマンティックな話はかつて「太陽にかける橋」という映画にもなった。 太平洋戦争が始まる直前、寺崎はワシントン駐在第一書記官であった。益々険悪になる日米関係の中で、何とか戦争だけは食い止めようと、ワシントンで奔走した。日本は既に軍事政権下にあった。 自分の行動が発覚すれば命の危険を伴うことは承知の上であった。外務省アメリカ局長であった兄寺崎太郎と極秘で交信するために使った暗号がグエンとの間に生まれた幼い娘「マリコ」の名前である。 英成は想像を超える努力の末、ついにルーズヴェルト大統領から天皇陛下宛の親電を取り付けることに成功する。しかし時は既に遅かった。真珠湾攻撃に向う帝国海軍機動部隊はハワイ北方に到着していた。 日米開戦になり、敵国外交官として本国に送還される寺崎は妻にアメリカに残るように説いた。しかし、グエンは夫とは離れないと決意し、夫と娘とともに敵国日本に向かう。

 読み終えたとき、教室はしーんと静まり返った。すぐに発言する学生は誰も居なかった。皆深く考えこんでいるようであった。そこに頓狂な声をあげた女子学生がいた。「日本人で戦争をしたくない人がいたんですか。 全然知りませんでした!」 純粋に驚いた様子であった。この年代の学生にとって戦争は遠い。両親の経験ですらない。祖父母の年代の経験である。 お年寄りから聞いた話は日本兵の残虐さ、オーストラリア兵が非道な扱いを受けたシンガポールのチャンギ捕虜収容所。 神風特攻隊などは英雄どころか、現代の感覚で言えば「過激な自爆テロリスト」と同じように話される。 当時の日本で、特高警察に脅かされながらも戦争反対を唱えた知識人たち、軍部の暴走をどうすることもできなかった何千万の一般市民など、学生達は聞いたこともなければ、考えたこともない。 歴史の教科書も、こと戦争に関する限り敵方の人間性などにはふれない。

 日本に限らず「国の本質」を教えるのは途方もない大事業である。最近は外国で人気の出ているアニメなどをテーマに日本を語ることが学会でも行われている。 日本を教える手段として、それもひとつかもしれない。しかし、「日本を教える」立場にある人は何が日本の本質であるかを見失ってはいけない。それには、まず自分で勉強することだとつくづく感じる。

 

 15回

 オーストラリアの大学生は出身国も年齢も千差万別。彼等の人生体験を聞いて、頭の下がる思いを何度も味わった。

 ワンさんはマレーシア出身中国系の女性。初対面の時「あら、素敵な人」と思った。小柄だが、服装のセンスから身のこなしから大変エレガントであった。 「あの時ね、私六十歳だったの」いう。とても年寄りには見えない若々しさがあった。特別な事情があって、どうしても日本を勉強したい、と面接に来たのである。

 マレーの恵まれた家に生まれた。そして戦争。 国は日本軍に占領された。日本兵の暴挙、残虐さを毎日見せつけられた。道で日本兵を見たら皆お辞儀をしなければならなかった。ある日、父と歩いていて日本兵と行きかわした。 お辞儀の深さが足りないと、父親は殴り倒された。マレー社会で立派な地位のある父が泥にまみれて横たわった。しかし、そんなのは軽い方であった。ある日、角を曲がっていきなり眼にしたのは竿にさされた生首の列であった。 「日本人に忠誠でない」と誰かに密告された同胞が見せしめに殺され、晒されたのであった。その妻たちは日本兵に強姦されたと聞かされた。そんなことの繰り返しであった。 占領は彼女が12歳から3年半、感受性の強い時期でもあった。日本人への憎悪、嫌悪で身が焼かれるようであった。戦後留学、イギリスの大学を卒業して本国に帰り、結婚して子供も生まれた。安定した幸せな生活であった。 しかし日本人に対する憎悪は消えなかった。同じ経験をした友人たちも皆そうであった。

 その後一家でオーストラリアに移住した。多文化社会でいろいろな人と出会った。いい日本人にも出会った。人は夫々である。一国民を一色で塗りつぶすことはできない。理屈では分っていた。 しかし、日本人に対する憎悪は根強く、身の一部になってしまったかのようだった。こんな生き方はしたくない。憎悪を抱えていきる人生は嫌だ。何とかしなければ、と思って訪ねたのが私の部屋であった。 真の日本を知ることによって憎悪を払拭したい。彼女の話を聞いて深く打たれ、特別入学を許した。

 日本学科に通い始めた彼女はただの学生ではなかった。若手スタッフは日本から来て間もない。家族もいなければ友人も少ない。それを知って彼女はなにくれとなくスタッフの面倒をみてくれるようになった。 自宅の夕食に招いたり、困った時は相談にのったり。若手スタッフにとって、クリスマスは彼女の一家と共にお祝いすることが、いつの間にか恒例となった。

 最近、久しぶりで彼女と食事した。もう八十歳になったのよ、と云う。二十年前のあの日私の部屋を訪ねたのが人生の転換であった、とつくづく述懐する。「怒り」「憎悪」からやっと開放された。今はとても自由。彼女の肌はつやつやとして若々しい。今は孫相手の幸せな日々という。

 

 

 16回

 イギリス貴族と結婚したオーストラリア女性がいる。ロンドン近郊で宮殿のような邸宅に暮らす。初めての訪問客に邸内を案内するとき、彼女は壁に並ぶ肖像画を説明する。 「これは主人の祖先たちです。」 宮廷服や、ガーター勲章のサッシュが目立つ、いずれも煌びやかな肖像画ばかりである。 「そして、こちらが私の祖先。」 彼女に促されて客が眼にするのは、もう一方の壁にかかる巨大なカンガルーの絵画。彼女は悪戯っぽく微笑む。 イギリスの特権階級出身ではない、生粋のオーストラリア人である、ということを即座に客に理解させる。客の期待を逆手にとった、彼女のプライドでもある。

 オーストラリア人のアイデンティティとは何であろうか。世界各国から来てこの地を祖国と決めた人々が、オーストラリア人として分かち合える共通項とは何であろうか。近代オーストラリアの歴史はまだ200年余。アボリジニー民族はこの地に4万年の歴史を持つ。 入学式、卒業式など公式の式典では開幕と同時にアボリジニー民族に対する敬意を表すことが今では通例になっている。しかしオーストラリアで生まれ育つ若い世代はアボリジニー文化の伝統は尊ぶが、自分たちのアイデンティティとはなっていない。 彼等が共通して自分達のルーツとするのは、むしろカンガルー、コアラを含むユニークなオーストラリアの自然環境であり、子供のころから聴いて育った開拓時代の話である。 広大な自然、そこで生活を築こうとする苦労と喜び、これはアボリジニーの人々も含めて皆が共通して分かち合える歴史である。

 娘たちが大学生の頃、クリスマス・お正月の休暇をアメリカで過ごしたことがある。アメリカは我々夫婦にとって留学生活をした親しい国である。 ニュー・イヤーズ・イヴはグランド・キャニオンであった。陽が落ちた峡谷を見下ろす山小屋風のレストランが新年を迎えるパーティの場になった。アメリカ人の他各国の旅行者でにぎやかであった。

 夜中の12時が近づき雰囲気が盛り上がってきた。そのとき、私たち一家の席から少し離れた一角から元気な歌声があがった。ワルチング・マチルダの歌。開拓期のオーストラリア、殆ど未踏のアウト・バック、そこを放浪する男の話。この歌はオーストラリア人なら知らない人はない。 何年か前、新しい国歌を選定するとき、ワルチング・マチルダを推した人は多かった。オーストラリア独特のスラングをふんだんに含むこの歌は「威厳に欠ける」と国歌にはならなかったが、 歌の人気は今も変わらない。一節を歌い終えて若者たちは大声で呼びかけた。「他にオージー(オーストラリア人の愛称)はいないか!」  待ってました、とばかり立ち上がったのはわが娘たちであった。すぐさま彼等とG’DAYの挨拶をかわし、楽しそうにワルチング・マチルダの合唱に加わった。 その歌声は、そこに集う世界各国の人々の中で高らかに宣言するオーストラリアのアイデンティティであった。ああ、わが娘たちもオーストラリア人であった。主人と思わず顔を見合わせて笑った。
 

  

 17回

 オーストラリアの国民性を特徴付けるものに、ヴォランティア精神がある。要するに「助け合い」の精神である。 1994年のお正月、シドニー一帯は歴史に残るほどの大規模な森林火災に見舞われた。 高温、低湿、強風、と悪条件が重なり、火は急速に広がりシドニーは周辺ドーナツ状の大火に囲まれ、陸の孤島になった。

 次女は仲間とキャンプに出ていた。高校を卒業し、夫々の大学に散っていく前に仲間たちと最後のキャンプであった。シドニーから北へ200キロ、オーストラリア特有の森林・ブッシュの中に湖の点在する有名なキャンプ地である。 火災はこの近くから始まった。携帯電話などない時の話である。どうなったことかとやきもきしながら連絡を待った。娘からの第一報はやっと見つけた公衆電話からだった。 「森林警備隊から早めに通報を受けたので一同無事避難して高速道路まで辿りついた。でもシドニーに戻る道は全部遮断され帰れない。」  次の連絡は「避難所が設置されたので、そこに移動した。」というものであった。母親として次に心配は食物である。全員高校生で、しかもキャンプとなれば所持金は限られている。 あと何日帰宅できないか分らない。食べ物はどうなる。 「大丈夫よ、マミー。食べ物は有りすぎる位」との返事であった。避難所設置と同時に周辺の主婦たちが、せっせとサンドウィッチやサラダを作り、男性の住民はバーベキューをして肉を焼いた。 パン屋さんが山盛りのパンを持ち込み、手作りのケーキも沢山ある。避難者数が増えても食べきれないほどの量の食料だった。これは避難中毎日続いた。 誰が持ち込んだのか、避難所の各所に大きなスクリーンが設置され気を紛らせる映画など上映した。エネルギーを持て余す若者たちのためにスポーツができる手配も整った。 これは総てヴォランティアの活躍であった。一週間近く経って、やっとシドニーに戻ってきた娘と仲間たちは皆健康で、元気いっぱいであった。

 森林火災時には、正規の消防団に加えて、何百人もの特別消防隊員が出動する。彼等は皆ヴォランティアである。普段はエンジニアであり、弁護士であり、あらゆる職業の人たちであるが、 年中を通じて森林火災時のための訓練を欠かさない。森林火災との奮闘は命がけである。しかし親子何代も隊員である家族も少なくない。親から子に、そして孫に継がれるオーストラリア特有の「男気」のようなものを感じる。 火災時には家族の女性たちも忙しい。食料、水の供給などに気を配る。ヴォランティアは森林火災消防団に限らない。各自治体に付属している災害救助隊は総てヴォランティアである。 台風の被害から交通事故に至るまで、被害者の援助に24時間待機している。

 オーストラリアの学生は大学在学中、海外のヴォランティア活動に出ることが多い。「どうして行くの」と訊くと、「オーストラリアは恵まれている国だ。 だから恵まれていない国に行って手助けするのはオーストラリア人として当然。」という返事が自然に返ってくる。子供の時から間近に見て育ったヴォランティア精神と無関係ではないと思う。

 

 

 18回

 1月26日はオーストラリア・デイ、建国記念日である。1788年1月、11隻からなる艦隊がイギリスから半年以上の航海を経て南太平洋の大陸に到着した。この地に最初のヨーロッパ植民地を築くためであった。 艦隊を率いたのは大英帝国海軍大佐アーサー・フィリップ、艦隊は約800名の流刑囚を含む総勢1500名をこの地に運んだ。
フィリップはまず沿岸視察、太平洋から狭い入り口によって隠され、しかも艦隊を幾つも停泊させられる程広大で水深の深い湾を見つけた。海軍軍人の眼で見て理想的であったのが現在のシドニー湾である。 湾の最奥にある静かな入江を上陸地と決定し、上陸と同時に砂地に高いマストを建て大英帝国国旗を掲揚した。鼓笛兵が英国歌を奏でた。国歌が鳴り響いたのはしかし、砂地と原始林のブッシュが茂る未開地であった。

 フィリップが上陸したシドニー・コウヴは今やオペラ・ハウスとハーバー・ブリッジで知られる観光名所。背景にはシドニーの高層ビルが立ち並ぶ。 しかし毎年、オーストラリア・デイの祝典はフィリップが降り立ったその場所で、国旗掲揚をもって開幕される。奏される国歌はアドヴァンス・オーストラリア・フェア、もうイギリス国歌ではない。

 植民地の建設は容易でなかった。イギリスから運んだ植物の苗は気候の全く違うこの地で根付かず、家畜の多くも失われた。最初の数年は飢餓と戦う生活であった。初代総督となったアーサー・フィリップは、しかし人徳で知られる。原住民のアボリジニー民族と共生を目指した。
沿岸視察中、アボリジニーの攻撃に合い、一人の投げた槍がフィリップの足を貫通した。しかし反撃しようとする部下をなだめたのはフィリップ自身であった。彼は矢を投げた男を「男らしい(manly)」と賞賛した。マンリーと名づけられた風光明媚なその海岸は今観光客で賑わう。
警戒心の強いアボリジニーの中でひとり、人懐っこく英国人に近づいてくる男があった。名はベネロング、彼は英語を覚えるのも早く、通訳の役割すら果たすようになった。 フィリップは彼がアボリジニーとの交流のかけ橋になると願い特別に目をかけて、自身の散歩道である岬に彼のための家を建てた。現在オペラ・ハウスの建つその岬はベネロング・ポイントと呼ばれる。 オペラ・ハウスに接続するガラス張りの素敵な建物はベネロング・レストランとして有名である。

 毎年オーストラリア・デイには各地で、新しく市民権をとる人のための授与式が行われる。キャンベラの授与式では首相が宣誓文を読み、一人一人に市民権証書を手渡す。 昨年の数字で、全国の市民権取得者は年齢にして4歳から85歳、出身国は150ヶ国に上った。今年のオーストラリア・デイも華やかに繰り広げられる。オペラ・ハウス一帯はその日を祝う人々で埋まり、 シドニー湾には最初の艦隊を模したクラシックな帆船が数々入港する。高いマストには色とりどりの旗がなびき、多国民国家になった今のオーストラリアを象徴するかのようである。


 

 最終回

 一年半余に亙ってお読みいただいたこのシリーズ最終回に当たって、我が家のことを少し。

 主人は中国に生まれ、香港で育ち、教育の大部分はオーストラリアとカナダで受けた。私は東京生まれ、大学までは東京で、大学院からはアメリカに留学した。娘二人はオーストラリア生まれ。 彼女たちが学校に行き始めたのは多文化が国の政策になって間もなくであった。学校教育は真っ先に多文化意識の育成に努めていた。長女が8歳位だっただろうか、ふと言ったことがある。 「私は三つの文化を持っている。結婚するんだったら、相手は少なくとも二つ以上の文化を持っていなければね。」 まだ子供だと思っていた娘の意識に私は驚くとともに感心した。

 その長女の結婚が決まった時、私たちは驚かなかった。大学医学部の同級生で10年間付き合った仲、彼はよく宅にも来ていた。私たち夫婦は彼を信頼し気に入っていた。しかし、ご両親との面識はなかった。 インドのハイドラバッド出身のご夫婦。ハイドラバッドは今やインドのシリコン・ヴァレーと呼ばれる近代都市であるが、イギリス統治の頃、植民地になるのを拒否し、地元の王家を守り独立を保った。 古い伝統を保つ地方である。さて、どうなるものか、主人と二人、懸念がないわけではなかった。結婚の承諾は何とか得たようであるが、結婚式の様式など、いろいろ問題が出てきた。 若いカップルの解決策はヒンドゥ教とキリスト教で二度式を挙げることであった。「せっかくのお祝いだから、思い切って多文化の祭典にしましょう。」と言い出した私に、長女も次女も大賛成でウキウキと支度にかかってくれた。 インドのお式は先方に合わせて娘たちも私もサリ、主人はネルースーツ。次の教会の式では、花嫁はウェディングドレス、ブライズメイドの次女は振袖、先方のお嬢さんは真紅に金のサリ。 参列者は和服、サリ、中国服、アオザイなど色とりどり。司祭のグリン神父は一同を見渡して、「これこそ正に多文化の祭典」と満面の笑顔であった。ハイドラバッドの親族から披露はそちらでもしたいとの申し出があり、両家で出向いた。 数百人のお客様。目の覚めるようなサリの美しさ。インド伝統社会の煌びやかさを満喫させてもらった。そのあと、急に近しくなったインドを初めて旅行して廻った。学ぶことが多く、視野が新しく広がる思いであった。

 数年後、次女は同僚の外科医と結婚した。金髪・青い目の彼はイギリスとロシアの血を併せ持つ。二組の若夫婦たちは学会などで、夫々よく旅行する。海外に出れば日本、カナダ、香港、インドと各国に親族が居る。 彼等にとってそれらの国は外国ではない。世界各地に親しい国がある。自ずと彼等の世界観は拡がっていく。

 今私たち夫婦の喜びは長女、次女に一人づつ生まれた二人の孫娘である。いくつもの文化の伝統を持って育つ子供たち。彼等が成長した時、どんな世界観を持つのであろうか。

 

チャオ・埴原三鈴(Misuzu Hanihara Chow)プロフィール
 
 早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業
 カリフォルニア大学バークレー大学院 修士
 日文研審査により 学術博士(PhD)
 カリフォルニア大学バークレー、トロント大学で日本語、及び日本文化を教えた後、
 オーストラリアマッコーリー大学〔国立〕において日本学科設立
 1988−2006年 同大学日本学科長
 1994−2007年 同大学日本教育研究センター長兼任
 2007年 同大学退官
 現在 同大学名誉賛助員

 


 
 
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